この曲を聴きながら書いたエッセイ。
執筆ソフトを開くのは久しぶりだ。いつから書かなくなったのだろうか。
新しい本をたくさん読んだわけでもなく、新しい人に出会ったわけでも、新しいことを始めたわけでもない。だから当然、書くべき新しいこともない――これらは、私が書かないことに対する言い訳だ。
実際、書いている時の私はひどくぎこちなくなる。書いたものが誰かに見られることを心配し、かといって誰にも見られないことも恐れる。書いた文字が結局は自分自身の内面に対する過剰な共有に過ぎないのではないかと悩み、誰かのインスピレーションになることを願いつつも、誰かに嫌悪されることも恐れている。
世界は広大無辺な海であり、人は海に浮かぶ島々だ。私たちは海面に出ている部分で交流し、付き合い、海面下の部分で生活し、前へ進む。誰もが海面下に複雑で深く、特別な部分を持っていると気づいた時、私は「共有する」という行為を恐れるようになった。
世界の95%の人は、内なる疑問や深い思考を抱えながら、しっかりと前へ進んでいる。彼らの島々は緑豊かだ。では、立ち止まって考える人間は、海の上で生きるために必要な何らかの特質を欠いているのだろうか。
私は自分を普通の人だと思っている。幼い頃からずっと、普通に成長してきた。情熱的な炎を見て、自分の体内に埋もれた光を燃え上がらせてくれることを期待したこともある。しかし、冷静に考えてみれば、それ自体が少し異常なことなのかもしれない。普通に育った赤ん坊は、肺を動かすために人工呼吸器を必要としないのと同じだ。そうして私は、自分には情熱が足りないのだと、仕方なく認めるしかなかった。
私は「影视飓风(MediaStorm)」の動画を見るのが好きだ。彼らには情熱がある。昨年の年間総括でTimが言った言葉がある。
悲観主義者は常に正しく、楽観主義者は常に前進する。
そこで私は思った。海深くへ潜り続けることは一旦置いておこう。まずは動こう。走り出そう。人混みに溶け込み、大陸の一部になろう。日の出と日没を見、雪山とオーロラを眺め、秋には海辺で波と戯れよう。働き、結婚し、喧嘩して譲り合い、春節には昨年と同じ会話を繰り返そう。時の流れとともに私たちは皆、崩れ去り、海底へと沈んでいくことを受け入れよう。
受け入れよう、実は海底は空っぽなのだということを。
世界には多種多様な人がいて、多種多様な生活を送っている。たとえ「それは反逆的だ」「独りよがりだ」という声が常に聞こえてきたとしても、歩みを進めてみれば、行く手を阻む壁などなかったことに気づく。しかし、この素晴らしい世界が、慰めなのかそれとも打撃なのかは判断しがたい。回遊する魚や南へ飛ぶ雁のように、「前へ進め、そこが前だ」と教えられたならどれほど楽だろうか。正解のない世界は、かえって障害となってしまった。空っぽであることで自由になったかのように。
かつて海流に乗って漂っていた時、ガイドが前で小さな赤い旗を振りながら言った。「次の駅は大学ですよ。具体的な駅は配布したガイドブックにも載っています。後半の駅は選択肢が多いので、興味のあるところを選んでくださいね」。ツアー客は次々と離脱し、ガイドブックに記されていない方向へと走り去っていった。
このように決められた方向に進んでいたら、もっと素晴らしい景色を見逃してしまうのではないだろうか。しかし:
世の奇偉、瑰怪、非常の観は、常に険遠にありて、人の罕(まれ)に至る所にあり。故に志ある者に非ざれば至る能わざるなり。
明らかに私は志ある者ではなく、かといって大勢に従う者でもない。結局、私は人混みから離れ、かといって遠くへ向かうこともできず、迷子のようにその場に立ち尽くしている。
この大海は、立ち止まっている島でさえ慈悲深く浮かべてくれる。たとえ波が私に前進を促しても、前方は広大無辺で、足元は空虚でしかない。
最後にもう一つ、映画『好东西(Good Autumn, Mommy)』の中の子供の作文の結びを引用する。
だから私はもう空想しない。ただ思考するだけだ。
答えるのは難しい。空想が先か、思考が先か、それとも前進が先か。もし将来子供ができたとしても、その子にはこの難問を投げかけないでほしいと願う。そして、その子が私に尋ねる前に、私自身が答えを出せていればいいと思う。