蝉の鳴き声を聞いたことがない人は、蝉の鳴く夏について語れるのだろうか?

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一
小学生の頃、作文でよく使った一文がある。「心の中が蜂蜜をなめたように甘い」。しかし、実際に蜂蜜をなめてみてから作文の場面を思い返すと、実際の蜂蜜の味とは少し違うような気がした。
言葉とは結局のところ主観的なものだ。身をもって体験しなければ、共感することはできない。防音ガラスの両端で行われる会話を、それほど重要視する必要はないのかもしれない。
だから、沈黙を選んだ。
二
学校の猫たちは皆、妖怪になろうと画策している。
これは私が偶然見つけた秘密だ。猫たちはいつもこっそりと道行く人を観察し、その仕草を真似ている。
時には、ずっと後を付いてこられることもある。これは単なる好奇心のレベルを超えている。
長い間観察した結果、その理由は、猫を見かけるたびに猫の鳴き真似をする人間が多いからではないかと推測した。その時の猫の表情は、まるで前を歩く先輩を見つけたかのような顔をしている。
いや、もしかすると学校に猫又が紛れ込んでいるのかもしれない。
三
そういえば、破鏡重円(一度壊れた関係が元に戻ること)なんてあり得ないことだ。
熱力学第二法則を見ると、いつもこのことを思い出す。
宇宙にある鏡はすべて、砕け散る方向へと向かっているからだ。宇宙のすべての原子が鉄になろうと努力しているのと同じように。
エントロピー増大に抗い、宇宙の奔流に逆らって生きることは、なんて英雄的なことだろうか。
だからこそ、生命は宇宙における唯一の奇跡なのだ。
四
その唯一の奇跡が、干物になりたがっている。
実は、これは子供の頃からの考えではない。子供の頃は確かに、真剣に科学者になりたいと思っていた。
ただ、その後好奇心が強かったおかげで、真の意味で科学者と呼べる人たちにも多く出会った。彼らは皆、一般的には業界を前進させるのが難しいような仕事に取り組んでいる。
それでも、知識に対する彼らのひたむきさに敬意を表したい。
私には、真理を発見するような精神が欠けていることを自覚している。科学者だけでなく、どんな物事であっても自分の人生の一部にしてしまう能力が欠けているのだ。
好奇心や好きという気持ちは、結局のところ「渇望」とは呼べない。
五
私と周りの人たちは、結婚について議論できる年齢になった。
驚いたことに、結婚したくないという人が半分もいる。
理由は様々だが、私はこの世代の反骨精神に感嘆している。
「これまでずっとそうだったから」という理由だけで、それをしなければならないのかと考え始めているのだ。
実は、結婚とは私の中ではずっと成人式のようなものだった。一人の男が結婚を決意し、自分の家庭を背負うと決めた時、その男は真に大人になるのだと。
そうでなければ、他人の目には、いつまでも自分勝手に遊んでいる子供のようにしか映らない。
私たちは皆、どうすれば自分が大人になったと証明できるのかを模索している。
六
毎年、新入生が入学してくる様子は、まるでタイムマシンのようだ。
当時の自分を思い出させると同時に、自分が老いたことも突きつけてくる。
なぜ私たちは、意気揚々とした子供たちを、最後まで意気揚々とさせてあげられないのだろうか。
私たちの教育方法は、子供たちにこの社会との付き合い方を一歩ずつ教えているかのようだ。
しかし実際、この社会は決して付き合いやすい場所ではない。
強すぎなくていい、ただ洞窟の中で屈服しかけている旅人を照らし、心の奥底にある光への渇望を呼び覚ますような、そんな光があればいいのにと思う。
私もまた、誰かを待つのではなく、自分自身がその光になりたい。
卒業が近づき、それもようやく学べそうだ。
もう二度と、「グラウンドの風がすべて自分に向かって吹いている」なんてことは言わないだろう。
七
好きという気持ちは、しばしば憧れから生まれる。
近づけば、少しは似てくるのではないかと思うからだ。
だからこそ、離れる時に喪失感を感じるのだ。
八
夏が終わろうとしている。
これからも絶えず、より良い自分に出会い続けられますように。