この夏は少し過ぎるのが早い。
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一、航海する船について
ニュースや掲示板を見るたびに期待してしまう。この、人々を乗せて揺れ動きながらも轟々と進む大きな船は、一体どこへ向かうのだろうか?
誰が言ったか忘れたが、人が集まるところには左右(派閥)ができるという。幼稚園の先生も言っていたことだが。
時々不思議に思う。「流浪地球」計画は本当に成功するのだろうか? 結局、数十年も経てば、自分がなぜ出発したのかを忘れてしまう人が出てくるのだから。船の上は喧騒に満ち、旗が乱立している。船首に掲げられた旗は、一体何色なのだろうか?

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二、憂鬱
朝の通勤中に聴いた曲がひどく憂鬱で、一日中ずっと気分が沈んでいた。でも仕事はあるし、長い文章を書く時間もない。昼休みには昼寝をしたかった。夜、仕事が終わると、ただ一時間横になってからゲームをしようと思った。もうすぐ十時という時、友人が私の元気がないことに気づいて話しかけてきた。本当は彼女と話したかったし、全然眠くもなかったけれど、明日起きられなくなるから寝ることにした。それでも朝起きると眠い。なぜ他の人はそんなに短い睡眠でも大丈夫なのか分からない。でも、何とかする方法はある。あの憂鬱なプレイリストを削除した。そうすれば、もう憂鬱ではない。

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三、月
私は月に対して強いこだわりを持つ人間で、夜空を見上げることはとても美しいことだと思っている。
月の下で、星々の間で語られる言葉には、格別の美しさがある。
時々、庭で空を見上げながら誰かと話すことがある。昼間にはあまり口にしないようなことを。そんな時、電話の向こうの相手を自分の隣に引き寄せて、一緒に同じ夜空を見上げたいといつも思う。私がその時話す言葉は、私の目に見えているあの空と合わさって初めて完成するものだからだ。あの言葉を口にする時、私の瞳には本当に月と星が映っている。
私は決して幸運に恵まれた人間ではない。これまで心から期待したことが思い通りになったことはほとんどない。しかし、人生は時折、茶目っ気たっぷりのウィンクのように突然の驚きをくれる。そして、その瞬間の喜びが、長い道のりを歩む支えになってくれるのだ。こうした小さな宝物のような瞬間は、私だけの幸運だ。何年も前、大勢で道端に座って、一番最初に見える星を探したことがある。彼らは学校での出来事や、誰が誰からラブレターをもらったかといった話で盛り上がっていた。私は詳しく聞いていなかった。首が痛くなり、目がかすんでも瞬きをしたくなかった。ようやく空に一番星を見つけて、目をこすって歓声を上げようとした時、夜空はすでに星々で埋め尽くされていた。
あの時の喜びと共に、中秋節おめでとう。
実は、私たちが空を見上げる時、見ているのは同じ月なのだ。

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四、クソくらえ
こんな人と知り合いたい。
休暇中にベッドでスマホをいじっていると、ドアを叩いて飛び込んできて「クソくらえ」と言うような人。
夕暮れ時に一人でイヤホンをして散歩していると、後ろから追いかけてきて「クソくらえ」と言うような人。
酒を飲んで昔の話が尽きない時、突然グラスを満たして「クソくらえ」と言うような人。
くそ、なんて面倒な奴なんだ。私が足踏みをして、諦めようとして、他人の背中が消えていくのを見て「人生なんてこんなものさ」と自分に言い聞かせている時、そいつは私の襟首を掴んで「クソくらえ」と言い、私を引っ張って一緒に走り出すのだ。

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五、時折のまとめ
ふと思い出して書くまとめ。ここ数年書いたものを振り返ると、どれも強烈な自己スタイルがある。
一人称であれ他の人称であれ、語り手はほとんど感情を含まない。物語を語るという宗旨を貫き、心理描写は常に抑制されている。これは自分への自信のなさから来ているのかもしれない。何が起きたかは分かっても、彼らの内面がどう思っているのかを断定する勇気がないのだ。
もし私が彼が喜んでいる、あるいは悲しんでいると明確に書いてしまえば、彼にとって他の可能性はなくなってしまう。そういえば、四年間で一番好きな文章は『韓小姐』だ。韓小姐は、一目見ただけで人の心を人質に取ってしまうような女の子だった。彼女の人質たちは、皆喜んで彼女のために死を選んだ。
だが、戦場の銃弾の雨と茨の森を越えて、小屋の中で自分自身を縛り付けていた人質を救い出した一人の男がいた。
私はその人が好きだ。おそらく、私はその人を待っているのだろう。鳥の言葉を話すRickが、自分が作り出した檻を開けて、外へ出る意味を与えてくれる誰かを待っているのと同じように。たとえ彼自身、すべてが無意味だと心では知っていても。
この数年、私はおしゃべりで、たくさんの人に出会った。その中には、私が待っている人だと思った人もいた。彼らは私の色とりどりの檻を好む人もいれば、好まない人もいた。しかし、この二つは対立している。檻を好む人が増えるほど、中の私の自己同一性は剥がれ落ちていく。それどころか、実は檻こそが私自身なのではないか。
これがこの数年のテーマだ。問い続け、待ち続け、しかし答えは一向に出ない。今日に至るまで、結局は「あるがままに」と書き記すことしかできなかった。とにかく、もうすぐ次の物語へ踏み出す。もし次の物語が、文字にする気すら起きないほど退屈でなければ、少しは心理描写を加えてみようと思う。
仮面を愛する者は、青い顔を見ようとはしない。 青を愛する者は、彩られた仮面を見ようとはしない。
前にあるのが仮面なのか、 それとも背後に隠れた影なのか。
ダンスミュージック、グラス、 防音ガラスの向こうの微笑む紳士。
六、卒業
毎年この時期になると、卒業祝辞を書いている。確かに祝いたい人はいつも卒業していくが、心の中では「こうして祝福を送る側で、自分もこの時期に祝福を受け取れるのだろうか」とも思う。
六月の初め、先生と卒業シーズンの企画について話し合っていた時、「ショートフィルムを撮りませんか」と言った。私は名誉を気にするタイプではないが、抑えきれない表現欲がある。もちろん、それに見合うだけの救いようのない先延ばし癖もある。四年間について言いたいことが多すぎて、脚本を書くのにたった二時間しかかからなかった。
しかし結局、そのショートフィルムは撮れなかった。そこには私の隠した私心が多すぎた。主人公が走るシーンをどうしても撮りたかったのだが、彼は力強く走ってくれなかった。何度も走らせようかと思ったが、撮影の外にいる自分自身も、一度も全力で走ったことがないことに気づいた。全力を出して醜態を晒しながら走るなんて、なんて恥ずかしいことだろう。だが、脚本の中では、走り続ける小太りの少年に最高の結末を与えた。
なぜ卒業や青春のショートフィルムには恋愛を入れなければならないのか、と聞かれた。実は、少年と少女の美しい恋愛を描きたかったわけではない。ただ単に、彼らを別れさせたかっただけだ。それによって成長する人もいれば、そうでない人もいるだろう。それが私の理解する青春だ。少年が少女に、彼女の家の窓から見える空の写真を送るシーンが大好きだ。なぜなら、私はそれを送れなかったから。
謝恩会の時、マイクを持って話しているうちに突然泣いてしまった。慌てて「団支書(クラス委員)の仕事を全うできず、団支部の建設をうまくできなかったことへの罪悪感だ」と説明した。笑わせるな、私が反省なんてする人間なわけがない。
ただ、卒業が唐突にやってきたように感じただけだ。しかし、時間は確かに淡々と過ぎていく。寝なくても明日は来るし、帰りの列車に乗らなければならない。終わると言わなくても、人は一人ずつ去っていく。運命とは、こんなにも単純な手段で私の感情を弄ぶものだ。
脚本の結末で、主人公は一人で座って他人が卒業写真を撮るのを見ていて、そこには加わらなかった。これは私の個人的なこだわりだ。言いたいことはまだたくさんある。もし聞きたいなら、ゆっくり付き合ってもいい。だが、もうその機会はないだろうから、言うのはやめておこう。
錦の山河、竹の杖と草鞋、剣を携えて、家を探そう。

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四月。
四月がまたやってきた。
人々が言う「寛容」や「思いやり」とは、おそらく利己心と無関心から来ていることに気づいた。
あなたのすべての決定を支持するのは、それがあなたが決めたことだからに過ぎず、 自分の選択を貫けと言うのは、それがあなたの選択だからに過ぎず、 周囲の欠点を許すのも、ただ無視して甘やかしているだけだ。
自分を切り離し、あなたを褒め、認め、あなたが成功しようが失敗しようが冷ややかに傍観する。悲しみも喜びもなく、結局のところ気にかけているのは自分自身だけだからだ。人々は、こうした承認的な会話を嫌うことはないが、そんな相手に自分のすべてをさらけ出すこともない。
だから、他人の心に土足で踏み込むような人間を無礼だと感じながらも、同時に羨ましくも思うのだ。

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