注意:本記事には『フレンズ』のネタバレが含まれている可能性があります。
NNNNOTICE!!!視聴し終えるまで、第4シーズン以降のストーリーについてはネタバレしないでください。
モニカとリチャードが別れた。
このドラマにおいて別れは日常茶飯事だ。私はモニカの最終的な帰着点がリチャードではないことをネタバレで知っていたので、彼らが一緒にいるのを見て、いずれ別れることは分かっていた。
もしかしたら次のエピソードかもしれない。リチャードが、モニカの掛け布団のひまわり模様がベッドの頭側を向いていなければ気が済まないというこだわりや、その他の些細なことに耐えられなくなるのかもしれない。とにかく、別れるのだ。数シーズン見てきて、そんな光景は見慣れている。
しかし、まさかこんな理由だとは思わなかった……プラトンがタイタニック号に衝突したような感覚だ。私は絶えず考えた。転機はあるのか?妥協するのか?愛し続けることはできるのか?だが、彼らが確実に別れることも知っている。ほら、これがネタバレの弊害だ。
ずっとずっと昔、知乎(Zhihu)を見ていた時、ある回答を目にした。質問は「若者が恋愛観を確立するために読むべき本は何か」といった類のものだったはずだ。そこには多くの本が推薦されており、私も興味を惹かれたタイトルをいくつか選び、読書リストに加えた。
その中に『愛人 ラマン』があった。
今となっては、なぜ『愛人 ラマン』が青少年に向けた推薦図書の回答に含まれていたのか理解できない。あのような本を読んで、一体どんな恋愛観が確立されるというのか。読んだら終わりではないか。『ムーンライズ・キングダム』や『ジェーン・エア』などで誤魔化すことはできなかったのだろうか。
もちろん、私の恋愛観を心配する必要はない。当時、私のKindleのホーム画面がちょうど『愛人 ラマン』を推薦してくれたので、私は喜び勇んで読んだのだが、それが私の恋愛観に極めて大きな衝撃を与えた。ただし、その『愛人 ラマン』は渡辺淳一が書いたものだった。だから私の恋愛観は最初から終わっていたのだ。
その本は私に教えてくれた。美しい愛とは「白」であるべきだと。それが持つ美しさは愛そのものからのみ生じる。愛さえあれば、何もいらない。愛さえあれば、すべてが手に入る。成熟した愛は、二人の成熟した人間の間で起こるものだ。彼らは互いに補い合い、また互いに新しい美しさを探求する。何年も離れていたのに、まるで何年も一緒に暮らしてきたかのように。彼はあなたに、子供の頃に駆け抜けた路地の話を語る。目を閉じれば、雨上がりの路地から立ち上る匂いさえ感じられるような気がする。
『愛人 ラマン』(渡辺淳一)の中で、主人公の男が通帳を女に差し出した時、私は彼らの間の愛に対する侮辱のようなものを感じた。そしてページをめくると、女も同じように考えていた。愛の上に築かれ、すべてが愛で構成された城を想像してみてほしい。愛し合う二人がその城で愛を育む。その城は、私の心の中で間違いなく「白」いものだ。なぜなら、白は白であり、ほんの少しの異色でも鮮やかに目に突き刺さる。白は、ほんの少しの異色さえも許容しないからだ。
しかし、愛はパズルゲームではない。私たちは皆、奇妙な形をしている。たとえ本当に「The One(運命の人)」が存在したとしても、確率的に見て、ちょうどよく出会える可能性はほとんどない。その人は何世紀も隔てた場所にいるかもしれないし、何万キロも離れた場所にいるかもしれない。城を仮想の上に建てることもできない。虚無が支えられるものといえば、虚無か泡くらいだ。泡は美しい。白く、そして極彩色に輝く。だが、吹けば飛ぶほど脆い。
心臓には重さがないから、世界中を飛び回り、世俗を顧みずにぶつかり合うことができる。しかし、体は地面に引き留められ、レンガを一つずつ積み上げて城の外壁を作っている。材料は牛乳とパン粉、部屋には親族や子供たち、そして食卓には四菜一湯(日常の食事)。
だから、モニカとリチャードは別れた。
彼女は気づいたのだ。リチャードは愛ではなく、彼女の愛の形をした泡だったのだと。しかし、多くの人は一生かけても泡さえ見ることができない。泡はすでに十分に美しい。ただ、少し来るのが遅すぎて、ちょうど愛とすれ違ってしまっただけなのだ。
そういえば、あの回答には『コレラの時代の愛』という推薦本もあった。このエッセイを書くためにわざわざブックマークを見に行ったのだが、当時の私がこのタイトルに興味を持たなかったことに感謝したい。