マダム・マルグリット 一

一
ずっと後になって、向かいに座る少女が手の甲で涙を拭うのを見ていた時、ふと思い出したのは、入り口の風鈴がチリンと鳴り、店主がドアを押してカフェに入ってきたあの遠い午後のことだった。
深センの秋分はまだ暑く、彼は外の湿った熱風を連れて店内に流れ込んできた。店には案の定客はおらず、カウンターの裏で私がグラスを磨いているだけだった。彼が入ってきたのを見て少し不思議に思った。平日に店に来ることは滅多になかったからだ。私はグラスを置いて手を洗い、どうしたのかと尋ねた。
彼は店内に入り、辺りを見回し、カウンターの中に入って後ろの棚にあるコーヒー豆の缶を一つ一つ凝視し、眉をひそめた。それから何かを思いついたのか、表情を緩めて私をテーブルのそばに呼び、「この店をバーに変えたいんだ」と言った。
「はあ?」
「考えたんだけど、今の若者にコーヒーを味わう時間なんてあるか? うちで一番売れてるのはアイスアメリカーノだ。あれを買う連中はカフェインが足りてるかどうかしか気にしてない。どこの豆を使ってるかとか、マシンか手挽きかなんてどうでもいいんだよ」
私は納得して頷いた。確かに、午前中は一番忙しい時間帯だ。
彼は私が頷いて話を聞いているのを見て、持論をこうまとめた。昼間にあれだけカフェインを摂取しているんだから、夜はぐっすり眠りたいはずだ。だから夜は酒を売ればいい。若者がバリバリ働きたいという欲求を満たしつつ、現実逃避したいというニーズも叶えられる、と。
彼がこの件について真剣に考えたことは見て取れた。話が盛り上がると、彼は手を叩いて言った。「これも店を良くするためだろ?」
私も嬉しくなって提案した。「いいですね。それならバーテンダーを雇いましょう。私は4時か5時には交代しますから」
彼の表情が固まった。少し沈黙してから、彼は私に尋ねた。「お前、ラテアートだってできるようになったんだろ? カクテル作りなんて楽勝じゃないのか?」
「それとこれとは違いますよ」
「5時以降は夜勤扱いにして、時給1.5倍でどうだ。10時には閉めるから」
彼の誠意ある約束に免じて、私は反論するのをやめた。実はラテアートすらまだまともにできておらず、ハートはいつもお尻のような形になってしまうのだ。それに、10時に閉店するバーなんて客が来るはずがないということも、彼には言わなかった。
とにかく、その後の1ヶ月で、私の後ろの棚にはボトルが次々と増え、私が厳選したコーヒー豆の缶は端へと追いやられていった。
最初は新しい酒が来るたびに、ノートに産地や種類、特徴などをメモし、どんなカクテルが作れるか調べていた。しかし、ボトルの数が増えるにつれて諦めた。店主が私を雇った時に教えてくれたあのやり方でいくことに決めたのだ。
二
夜は案の定、客はほとんど来なかった。たまにカップルが内装や店名に惹かれて入ってきて、真っ白なメニューを前に呆然としていることがある。
そんな時、私は微笑みながらカードを取り出し、彼らに言う。「直感で3枚選んでください。そうすれば、今の皆さんの気分にぴったりのカクテルをお作りします」
そして、複雑な味のカクテルを差し出し、こう伝える。「一口目は、世界に対して妥協している仮面です。世界とあなたとの間にある深い疎外感が混じっています。その妥協が深ければ深いほど、後味の衝突が激しくなりますよ」。女性客の場合は、少しアルコールを控えめにする。
少女たちは大抵満足してくれる。そんな時、私は別のメニューを取り出し、そのカクテルに名前をつけてもらう。そうして、奇妙な名前と私の突飛なレシピが書かれたメニューが出来上がった。
私はこのメニューを『物語』と名付けた。
『物語』は好評だった。他人の物語を味わうのも、自分の物語を綴るのも、人の好奇心をかき立てるからだ。
だが、一人だけ例外がいた。彼女は店主の友人で、開店初日に一緒に来ていた。その後、週に何度か酒を飲みに来るようになった。彼女は私のメニューを一度も頼まず、カウンターの隅に座ってウィスキーを一杯注文するだけだった。たまに大きな氷を入れてくれと言うが、ほとんどはそのままだった。一人でゆっくりと飲み、飲み終えると帰っていく。
ある日、店が空いている時に、彼女が突然尋ねてきた。「今、何種類のカクテルが作れるの?」
私は反射的に答えた。「あなたの気分が何種類あるかによりますね」
彼女は少し笑った。「やめてよ。その手口、店主に教えたのは私なんだから」。続けて彼女は言った。「簡単なカクテルを一つ教えてあげる」
そのカクテルは確かにシンプルだった。ベースは彼女がよく飲むライ・ウィスキー。そこに少量のドライ・ベルモットとオレンジビターズを加え、ステアした後にオレンジの皮からオイルを絞り、冷やしたグラスに注ぐ。私が作り終えてカウンター越しに差し出すと、彼女はグラスを揺らして一口飲んだ。「悪くないわね。店主があなたの才能を褒めるわけだわ」
私は手を洗いながら尋ねた。「このカクテルに何て名前をつけますか?」
彼女はまた短く笑って言った。「名前ねえ、考えないと」。そしてグラスを見つめてしばらく思案した後、顔を上げて私に言った。「『マルグリット』と呼んでいいわよ」
それ以来、彼女は『マルグリット』しか頼まなくなった。そのため、私は心の中で彼女を「マダム・マルグリット」と呼ぶようになった。
三
このカクテルのおかげで、マダム・マルグリットと時折会話をするようになった。もっとも、そのほとんどは天気や気温、店の暇な営業状況といった社交辞令だった。
心の中ではもっと交流したいと思っていた。彼女の声は低く心地よく、話し方もゆっくりで、いつも穏やかな眼差しで私を見てくれるからだ。しかし、彼女がグラスを見つめる時の目つきや、グラスを囲む細長い指先は、周囲の空気を環境から切り離しているかのようだった。その空気が、私を立ち止まらせた。「孤独を楽しんでいる人を邪魔するのは、大きな無礼かもしれない」。そう考えたのだ。
だから、自分から話しかけることはほとんどなかった。
そのルールを破ったのは、あるクレームがきっかけだった。
いつもの週末の夜、カップルが来店した。私は慣れた手つきで「当店特製のメニューをご覧になりますか?」と尋ねた。すると男は適当に手を振って言った。「ウィスキーをくれ。大きな氷を入れて」
私は頷き、内装を眺めている女性にメニューを渡した。彼女はメニューをめくり続けたが、なかなか決められない。男がメニューを取り上げ、眉をひそめた。
私は説明した。「これらは当店を訪れたお客様が残していったカクテルで、すべてお客様が名前をつけたものです。よろしければ、お二人のためだけのカクテルをお作りすることもできますよ」
彼は私の提案を無視し、『マルグリット』を指差して言った。「これ一杯くれ」
「このカクテルは少し度数が高いので、飲み慣れていないと厳しいかもしれません」
「おかしいな、これって女性向けのカクテルじゃないのか?」男はそう言い放つと、女性に対して世界の酒の種類や飲み方について講釈を垂れ始めた。
私は横で聞き流しながら男にウィスキーを出し、手を洗って『マルグリット』を作り始めた。「へえ、このカクテルって女性向けだったのか?」と思いながら、琥珀色の『マルグリット』を女性に差し出した。
そして、この店で働き始めて3年目にして初めてのクレームを受けた。男は店主の電話番号を聞き出し、電話越しにこう怒鳴った。「こんなに専門的な内装の店が、なぜあんな素人バーテンダーを雇ってるんだ!」
私の第一印象は「店主は内心喜んでいるだろうな」だった。
結局、代金の返金と「気分カクテル」を一杯サービスすることで事態は収まった。そのおかげで、私は本当の『マルグリット』のレシピを学んだ。本来の『マルグリット』は、見た目が華やかなパーティーカクテルであるべきで、マダム・マルグリットが教えてくれたような、ほぼウィスキーだけで構成された高アルコールの酒ではないのだ。
私は完全にあの女に騙されたと確信し、次に店に来た時に問い詰めてやろうと心に決めた!
四
翌日、マダム・マルグリットはいつも通りやってきた。ドアを開けるとコートをハンガーにかけ、ポニーテールを軽く結び直していつもの席に座り、私を見て言った。「ハロー、今日は外がすごく寒いわね。マルグリットを一杯」
私は「そうですね」と返そうとしたが、『マルグリット』という言葉を聞いて昨日の出来事を思い出し、プロの微笑みに切り替えた。「お客様、テキーラベースのクラシックなマルグリットになさいますか、それとも当店独自のマルグリットになさいますか?」
彼女は少し間を置いてから笑い出した。「あはは、じゃあクラシックな方を試してみようかな」
彼女がこんなに大笑いするのは珍しい。笑い声を聞くと余計に腹が立ってきた。まるで悪戯に引っかかったような気分だ。しかし意外にも彼女がクラシックを選んだので、私は昨日のレシピを思い出しながら作り、彼女に差し出した。
「グラスの縁に塩をつけるのを忘れないで」
「あなた、このカクテルのことを知っていたのに、なぜ私に『マルグリット』なんて名前を教えたんですか? そのせいで昨日クレームを受けて、店主にまで電話がいったんですよ」
彼女はまた微笑んだ。機嫌は良さそうだ。「反論すればよかったじゃない。私たちが飲んでいたのはフランス語の『Marguerite』。彼が頼んだのは『Margarita』。ただ呼び名が重なっただけよ」
「そんなの、私には分かりませんよ。教えてくれなかったじゃないですか」。そう言いながら、私はメニューとペンを差し出した。「じゃあ、フランス語で書いてください」
彼女はペンを受け取り、綺麗な字で綴った。後で調べてみると、確かにフランス語で「雛菊(デイジー)」という意味だった。
このカクテルとは全く合わない。40度以上もある酒を雛菊と呼ぶなんて。だから私は尋ねた。「なぜこのカクテルをマルグリットと呼ぶんですか?」
彼女はグラスを見つめてしばらく考えた後、答えた。「マルグリットは、ある娼婦の名前よ」
その答えはあまりに突飛で、彼女を取り巻く空気と共に襲いかかり、彼女を遠くへ押しやった。私の怒りも、悪戯に引っかかったという恥ずかしさも、すべてその空気に飲み込まれた。脳内が真っ白になり、何も言えず、ただ反射的に手を洗うしかなかった。
彼女もそれ以上は何も言わず、鮮やかな色のマルグリットをゆっくりと飲んでいた。
五
クレームから数日後の午後、店が一番暇な時間帯だった。冬の太陽がガラス戸から斜めに差し込み、外の冷たい風を遮断して、店内には温かな空気が流れていた。
私が店でネットサーフィンをして暇を潰していると、店主が突然ドアを押して入ってきた。店内を見回し、カウンターの前に立つと、声を弾ませて言った。「一昨日クレームを受けたんだって? 悔しかっただろ。慰謝料の紅包(お年玉)を持ってきたぞ」
ポンと紅包をカウンターに置く。本当に文句を言いたかった。従業員がクレームを受けたのに紅包を渡す店主なんてどこにいるんだ。しかし、もし彼がこんな店主でなかったら、私もこんなに長く働いていなかっただろうなと思い直した。
そう考えて、組んでいた足を下ろして立ち上がり、スマホをしまって笑顔で言った。「店主、何か飲みますか?」同時に紅包をポケットに突っ込んだ。
「ネスカフェのインスタントでいいよ」
「了解です」
コーヒーを差し出し、ついでに自分の分も淹れた。こうして二人はカフェの窓際、ちょうど日が当たる場所に座り、インスタントコーヒーを飲んだ。
3年前、私が初めてこの店に来た時も同じ光景だった。当時は断るつもりだった。コーヒーの知識が全くなかったからだ。彼は「興味がなくても、とりあえず店を見に来てくれ」と譲らなかった。そうして私は彼について、この青と白の看板が掲げられた、歪んだ内装のカフェに来た。入った後、彼がネスカフェのインスタントを淹れてくれて、私の第一印象は「この店には本当にバリスタが必要だ」だった。
彼は店内の蓄音機や、集めたポストカード、冷蔵庫のマグネットを見せてくれ、この店を絶対に成功させたいと語った。大金を稼ぐ必要も、客がたくさん来る必要もない。ただ、この世界にこういう店が存在していてほしいのだと。
最後に彼は、もし残ってくれるなら、店で流す曲は自由に選んでいいと言った。
人が現れるタイミングというのは本当に重要だ。ライブハウスで、新褲子(New Pants)バンドがステージでちょうど「失敗と孤独の中で死にたくない」と歌い、周りの人々が頭を振りながら叫んでいた。私はその場に立ち、ステージでマイクスタンドを揺らすボーカルを見つめながら、涙がこぼれないように耐えていた。店主は私の隣に立っていた。一緒に歌うことも、写真を撮ることも、スマホをいじることもせず。ただ、曲が終わって群衆が静まり返った瞬間、彼は私にティッシュを一枚渡し、ストレートに言った。カフェを開きたいから、店で働かないかと。
もしあの曲でなかったら、もしあのライブハウスでなかったら、もし見知らぬ街でなかったら、もし……
私は心の中で「今の男の口説き方は本当に下手だな」と毒づいていたかもしれない。
残念ながら「もし」はない。結局のところ、自分がどの条件に動かされたのかすら分からない。当時の私は、仕事を辞めてどこかで気分転換をしたかっただけなのに、なぜかこの街で3年も過ごしてしまった。
しばらく座っていると、風鈴の音と共に客が入ってきた。私は立ち上がって接客し、彼もコーヒーを飲み干すと、いつもの長いソファに寝転がってスマホをいじり始めた。
客が帰った後、彼は何かを思い出したのか、カウンターに戻ってきて小さな箱を差し出した。マダム・マルグリットからの謝罪の贈り物だと言う。直接渡すのは恥ずかしいらしい。突然、心が躍るような、跳ね上がりたいような気分になった。もちろん表情には出さず、店主に言った。「へえ、彼女の名前ってそうだったんですね」
箱の中には上品なヘアゴムが入っていた。私は髪をまとめてポニーテールにした。
ガラスに映る横顔に向かって、軽く頭を振ると、ポニーテールも一緒に跳ねた。気分はさらに良くなった。
六
マダム・マルグリットが店に来た時、店主はまだ帰っていなかった。ソファに寝転がって一日中、二次元の課金ゲームをしていた。
彼女は入ってくるとまず私を見て言った。「今日は髪型を変えたのね。そのヘアゴム、すごく素敵」
私は笑って答えた。「たまには違うスタイルも試さないとね」
彼女も笑った。「マルグリットを一杯。店で寝転がってスマホをいじらせておいて、商売に影響しないの?」
「何度も追い出そうとしたんですけど、出て行かないんです」
店主は会話を聞いて近づいてきた。「これは店に活気を与えて客を呼ぶための戦略だよ。俺にもマルグリットをくれ。本物のやつをな」
「私のやつは偽物だって言いたいの?」マダム・マルグリットが反論する。
私はそんな論争には介入せず、彼女に酒を差し出し、手を洗って二杯目を作り始めた。マダム・マルグリットはしばらく私を見てから尋ねた。「ずっと不思議だったんだけど、なぜカクテルを作る前に毎回そんなに長い時間手を洗うの?」
店主が横から口を挟む。「カクテルだけじゃないぞ。コーヒーを淹れる時もそうだ。これぞうちの店員の素晴らしい素養だよ」
私はマルグリットのレシピを思い出しながら答えた。「昔、日本料理店で身についた習慣です。寿司を握る前には必ず手を洗うんです。当時の料理長が厳しくて、手洗いにも決まった手順があって、時間は必ず30秒以上と決まっていました」
「使い捨ての手袋じゃダメなの? 手が荒れちゃうでしょう」
店主がまた口を挟む。「手で直接触れて作った寿司の方が美味しいっていう説もあるからな」
「どうしてその日本料理店を辞めたの?」マダム・マルグリットがさらに突っ込んでくる。
私は手を止めて、笑って答えた。「自分には向いていないし、才能もないと感じたからです」
マダム・マルグリットは頷き、グラスを持ち上げて話題を変えた。「あなた、昔その料理長のこと好きだったんでしょう?」
私はグラスの縁に海塩を塗っている最中で、これを聞いて固まった。「え? なんで?」
彼女は目を少し動かして言った。「そういう妙な習慣って、好きだからこそ身につくものよ」
「そうなんですか?」反論しようとしたが、頭の中に有力な根拠が浮かばない。店主が口を挟んだ。「でも、そんなの馬鹿みたいだろ。相手が自分に残したものに固執するなんて」
私はマダム・マルグリットがどう答えるか気になった。彼女は少し沈黙し、グラスを軽く弄んだ。視線は私の方を向いているようだが、焦点は私の後ろの誰もいない場所にある。しばらくしてようやく店主に視線を戻すと、彼女は優しく微笑んで言った。「あんたに何が分かるのよ」
私は作り終えた酒を店主に差し出し、ため息をついた。「二人とも、話がどんどん変な方向に行ってますよ」
店主は一口飲み、私に親指を立てた。「さすが料理人だな。ちょっと習っただけで、俺が見た中で一番才能のあるバーテンダーだよ」
私は軽く目を剥いた。「……あなたはバーテンダーを数人しか見たことないでしょう」
七
バレンタインデーが過ぎ、春節前の最後の営業日が終わった。しかし今年のバレンタインは例年と違い、店主はイベントを準備しておらず、客足も悪かった。イベントがないから客が来ないのか、客が来ないからイベントがないのかは分からない。とにかく8時の時点で店にはまばらに1、2人しかおらず、彼らも帰る準備をしていた。
店主からメッセージが届き、客がいなければ閉めて帰っていい、遅くまで残らなくていいとのことだった。私は「了解」と返し、ついでに早めの新年の挨拶をした。
カウンターを片付け、手を洗って閉店準備をしていると、マダム・マルグリットが入ってきた。いつもと違うのは、一人ではなく男を連れていたことだ。珍しいので何度かその男を見た。トレンチコートにマフラーを巻いており、服装に気を使っているタイプだと一目で分かった。座るとかすかに香水の匂いが漂ってきた。
マダム・マルグリットはいつもの席に座り、私に言った。「マルグリットを二杯」。振り返って男に尋ねる。「いい?」男は頷き、彼女の隣に座った。
私が酒を差し出すまで、二人は一言も話さなかった。私は横で一度拭いたグラスをまた磨きながら、好奇心を抑え込んでいた。ようやく男がグラスを持ち上げ、マダム・マルグリットもそれに合わせて乾杯した。男が口を開いた。「あけましておめでとう」。長い間話していなかったような、かすれた声だった。
マダム・マルグリットも言った。「あけましておめでとう」
また沈黙が流れたが、長くは続かなかった。男が切り出した。「今年の春節は実家に帰るのか?」
マダム・マルグリットは「うーん」と唸り、「たぶんね」と言った。
「どうやって帰るんだ? 車か、それとも電車か?」
マダム・マルグリットが小さくため息をつくのが聞こえた。彼女は男の方を向いて言った。「一体なぜ私に会いに来たの? 約束したじゃない」
男は何も言わず、酒を一口飲んだ。先ほどの世間話を飲み込むかのようだった。やがて口を開いた。「会いに来ないと後悔すると思ったんだ。何か……とても大切なものを失ってしまったような気がして」
「例えば? 何が大切なの?」
「分からない。でも、心に穴が空いたような感覚が確実にあるんだ。君がいないとダメなんだと思う」
「誰かがいないと生きていけないなんてことはないわ。子供じゃないんだから」
「最初はそう思っていた。自分は自立した……成熟した人間だと思っていた。でも君と過ごして、君が与えてくれた新しいものは違ったんだ。それらは、ずっと欠けていた僕の心の何かを補ってくれた。どう言えばいいか分からないが、君が僕を完成させてくれたような気がするんだ」
「私はせいぜい、あなたに少しの共感を与えただけよ。特別なことなんて何もしていないわ」。マダム・マルグリットの声は相変わらず魅力的で、男が必死に語った長文も、彼女にとっては軽いもののように聞こえた。彼女は手首を回してグラスを揺らし、一口飲んだ。
私はグラスに生えたカメラのように横で覗き見していた。マダム・マルグリットが盗み聞きしている私の方を向いたが、何も言わなかった。
男は言い終えると、力を使い果たしたように肩を落とした。「共感だけじゃない。共感なんて必要ないんだ。僕が感じているのは、もっと深くて本質的な感覚なんだ」
マダム・マルグリットはグラスを置いた。「それ、愛だなんて言いたいんじゃないでしょうね」
男は頷いた。「そうだと思う」
マダム・マルグリットの視線がようやく男に固定された。「あなたはいつも『~のような気がする』『感覚』『たぶん』といった、自分でも答えを見つけていない問題で、私に同じ答えを求めている。少しおかしいと思わない? もう言ったはずよ。あなたのその感覚は、単に私が経験豊富だから共鳴しただけ。でも、共鳴は二人の類似性を意味しないし、二人が運命の相手だということも意味しないわ」
男は反論した。「問題を抱えたまま、答えを探しながら一緒にいることはできないのか?」
マダム・マルグリットは笑ったが、その笑みに喜びはなかった。「あなたにとってはできるかもしれないけど、私には無理よ。なぜ私があなたの答え探しに付き合わなきゃいけないの? それじゃあ私は何? あなたの成長を助けるNPC?」
男はそれ以上何も言わなかった。しばらくして会計をしようとしたので、マダム・マルグリットが既に支払いを済ませていると伝えた。彼はまた座り込み、2分もしないうちに一人で店を出て行った。
マダム・マルグリットは酒を飲み干し、私に「もう一杯マルグリットを」と言った。
八
手を洗っている時、我慢できずにマダム・マルグリットに尋ねた。「なぜ一緒に答えを探してはいけないんですか?」
彼女は私に微笑んだ。「一緒に探すわけじゃないからよ。私の答えはもう見つかっている。彼が探すべきなのは彼の答えなの」
「それじゃあ、一緒にいられないんですか?」
彼女は首を振った。「誰かの答え探しに付き合うのは疲れるし、時間もかかるわ」
今日のマダム・マルグリットはいつもと違った。よく喋るし、話したいという意欲も感じられた。そう言い終えると、彼女は続けて言った。「私はもう子供じゃないの。そんなに無駄にする時間はないわ」
その雰囲気に影響されてか、もっと質問してもいいような気がした。私は尋ねた。「じゃあ、さっきの人は好きなんですか?」
彼女は辺りを見回し、まばたきをして、カウンターに身を乗り出して小声で言った。「好きよ」。店内には私とマダム・マルグリットの二人だけ。音楽は楊千嬅(ミリアム・ヨン)の『可惜我是水瓶座(残念ながら私は水瓶座)』が流れており、彼女の歌声は相変わらず頑固だった。
この答えはあまりに直接的で、大きな声で言うと店に記憶されてしまいそうだから、こうしてこっそり答えるしかなかった。マダム・マルグリットは続けて尋ねた。「じゃあ、一昨日話していたあの料理人は? あなたは彼が好き?」
私は新しい酒を差し出し、同じく小声で言った。「好きです」。言い終えると顔が熱くなった。うつむいて彼女を見ると、彼女も私を見ていた。
二人には妙な共犯関係のような空気が流れていた。彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。「マルグリットの味、試してみない? 私が奢るわ」
私は首を振った。「店主が、勤務中に酒を飲むなと言っているんです」
彼女は立ち上がり、店のドアを閉めた。「じゃあ、退勤すればいいじゃない」。言われてみれば、店主は確かに「今日は客がいなければ早めに退勤していい」と言っていたし、もうその時間だ。私は自分の分もマルグリットを作り、洗い物をしている時、彼女が突然尋ねてきた。「手を洗う時、普段は何を考えているの?」
私は真剣に考えた後、首を振って言った。「特に何も考えていません。ただ、以前働いていた店の洗面台をよく思い出します。すごく狭くて、水がすぐ飛び散るんです。何度も蛇口を変えてくれないかと言ったのに。彼は私の隣に立って一緒に手を洗いながら、私の要求が多いと言いつつ、洗う時間が30秒足りないと言っていました。結果、今では誰も小言を言わないのに、毎回30秒以上洗っているし、1日に何度も洗っています」
マダム・マルグリットは何も言わず、ただグラスを持ち上げて、テーブルに置いた私の酒と軽く合わせた。
これが初めてのマルグリットだった。一口目の感想は「苦い」。甘い後味をすべて取り除いた味だ。眉をひそめて彼女を見ると、彼女は微笑んだ。「少しずつ飲むのよ。一気に飲むと、烈酒は味わう暇がないから」
そして何かを考えたのか、彼女は横に移動し、ナイフでハムを綺麗に切り分けて皿に並べ、爪楊枝で私に一枚差し出した。「これを食べてからもう一度試してみて。少しずつね」
ハムを噛んでウィスキーの味を散らし、一口含んだ。入り口はまだ苦い。しかし、柑橘系の風味があり、続いてウィスキーの煙のような香りが押し寄せてきた。私は首を振って言った。「さっきより美味しいです」。ふと思い出したことがあり、尋ねた。「さっき、このカクテルがなぜマルグリットと呼ばれるのか聞いた時、娼婦の名前だと言いましたよね。どうしてですか?」
マダム・マルグリットは爪楊枝でグラスの縁を叩きながら言った。「『椿姫』は読んだことある?」私は首を振った。彼女は続けた。「『椿姫』の主人公の名前がマルグリット。娼婦よ。マルグリットという名前はフランス語では、中国語で言う丁香(ライラック)や……」彼女は少し考え、花を思い浮かべているようだった。「玉蘭(マグノリア)のようなものね。娼婦という言葉とはかけ離れているように感じるでしょう? でも彼女は有名な高級娼婦だった。このカクテルと同じよ。マルグリットと呼ばれているのに、中身は烈酒。ぴったりだと思わない?」
「その後、あのマルグリットはどうなったんですか?」
「その後はね……」
私はゆっくりと酒を飲み、ハムを噛み、店には私のプレイリストが流れていた。マダム・マルグリットの話はとても静かで、『椿姫』について語っていた。グラスの中の酒は度数が高く、視界の周囲をぼやけさせ、焦点の合わないレンズのようだった。視界の中心にいるマダム・マルグリットだけは鮮明だった。恍惚とした中で、本当に『椿姫』を見たような気がした。一杯の酒の中で、彼女の人生を駆け足で通り過ぎたような感覚だ。
「最後は、一輪の椿を抱いて死んだのよ」
九
バレンタインデー以降、カフェは営業していなかった。店主は休暇中にゆっくり休めと言った。彼の本音は実家に帰れということだと分かっていたが、今年も帰るつもりはなかった。
大晦日は毎年こうだ。多くの飲食店が閉まり、街を行き交う人もまばらで冷え切っており、風が街全体を遮るものなく吹き抜けていくようだ。
私は彷徨いながら、今年の大晦日の夕食をどこで食べるか探していた。結局、デパートに行かないと活気がないことに気づいた。1階から4階まで見て回ったが、ひどいことにすべてのセットメニューが最低2人以上という条件だった。
モーパッサンの短編『散歩』を思い出した。ルラ老人がふと思い立って散歩に出かけ、美味しいものを食べようとする。天気は良く、食べ物も美味しく、道行く人は皆愛し合っている。そこで彼は、その日の未明に自ら命を絶つことを選んだ。
一人用セットメニューがないのは、こうした悲劇を防ぐためかもしれない。それなりに理屈はある。私は頭の中で妄想を膨らませながら小さく頷いた。突然、誰かに見られている気がして顔を上げると、なんとマダム・マルグリットが手すりにもたれて微笑んでいた。
私は上の階へ行き、挨拶をしてなぜここにいるのか尋ねた。映画を見に来たのだと言い、手元のチケットを見せてくれた。『ラ・ラ・ランド』だった。見たことがあるかと聞かれ、頷き、また首を振った。見たことはあるが、ずっと昔のことで、高校生の頃だったか、内容はすっかり忘れていた。
彼女はなぜ一人でうろついているのかとは聞かず、ただ「一緒に見ない?」と誘った。私は考えもせず「いいですよ」と答えた。賑やかなデパートとは対照的に、映画館は空っぽで、彼女の隣の席を買うことができた。
『ラ・ラ・ランド』は寮の布団の中で隠れて見たが、展開が遅くて途中で眠ってしまった。今見返してみると、冒頭で大勢が橋の上で歌うシーン以外、全く記憶にないことに気づいた。
男主人公が車で女主人公の実家の前でクラクションを激しく鳴らすシーンで、涙がこぼれ落ちた。このシーンは感動的とは言えないだろうし、ほとんどの人はここで泣かないはずだ。マダム・マルグリットは私のすすり泣きを聞いたのか、バッグを探ってティッシュをくれたが、何も言わなかった。
映画が終わると彼女は立ち上がり、コートのポケットに手を突っ込んで私を見て言った。「エンドロールの曲、聞く?」私は首を振った。すると彼女は「じゃあ行こう」と言った。
二人はデパートの中を歩いた。しばらく静かだったが、彼女は何を思ったのか振り返って尋ねた。「さっき映画館で誰かを思い出したの? あんなに泣いて」
私は小さく首を振って言った。「いいえ。結末がどうなるか分かっていたはずなのに、努力が毎回……砕けたガラスの破片になっていくのを見るのが辛くて。愛し合っているのになぜ十分じゃないんでしょう?」
「それは、そこまで愛していなかったからじゃない?」彼女は即答した。
「愛って一体何なんですか? どれだけ愛せば十分なんですか?」私は理不尽な子供のように尋ねた。
マダム・マルグリットは長い間沈黙した。私たちはかなり遠くまで歩いた。もう話題は過ぎ去ったのかと思った頃、彼女が答えた。「ある人とは少しの愛で一生歩けるし、ある人とはたくさんの愛が必要になる。だから、もしかしたら……愛は二人をくっつける接着剤か、あるいは……二人の間に打ち込まれた釘なのかもしれない。そう考えると、愛が多すぎるのは必ずしも良いことじゃない。二人がくっつくためにそれだけの愛が必要だということで、剥がれる時に残る傷口が深くなるだけかもしれないわ」
私は口を開いては閉じた。彼女はあまり長い話をしないが、話すたびに巨大な冷気にぶつかるような感覚に陥る。結局私はこう言った。「そう考えると、愛はそれほど偉大じゃないんですね」
「愛なんて、もともと偉大じゃないわよ」
十
私たちはそれ以上何も話さなかった。20分ほど歩くと、彼女は牛肉火鍋の店に連れて行ってくれた。初めて深センに来た時に食べた最初の食事がここだったと教えてくれた。
店主は店で春節の特別番組を見ていた。まだ正式には始まっておらず、予習やインタビューの最中だった。私たちが店に入ると、何を食べるか聞かれた。マダム・マルグリットは注文が早く、サクサクとチェックを入れた後、メニューを私に渡して追加を促した。食べたいものはほとんど頼まれていたので、追加はしなかった。
すぐに鍋が運ばれてきて、私たちはテーブルの両端で火鍋が沸騰するのを待った。スープに浮かぶ玉ねぎをぼんやり見つめていると、マダム・マルグリットが尋ねた。「何を考えてるの?」
「深センにはたくさんの種類の食べ物があるけれど、実は一つも深センの地元料理じゃないなって」
「外来人口の街だからね」
「そのせいか、この街はなかなか『家』という感じがしないんです」
「ホームシック?」
「実家の美味しいものが恋しくて、あはは」
マダム・マルグリットはカルピスを一本注文し、温かい飲み物か冷たい飲み物がいいか聞いてきた。私も同じものを頼んだ。彼女は酒を頼むと思っていたので、こんなに明るい照明の下で、彼女の手元にグラスがない姿を見るのは初めてだった。
彼女はグラスを頼み、氷をいくつか入れて、ストローを噛みながらカルピスを注いだ。一杯目を私に差し出し、二杯目を自分に注いだ。私は笑い出した。「不思議な気分ですね。役割が逆転したみたいで」
彼女も笑った。「いらっしゃいませ。ご注文のカルピスです」
火鍋がグツグツと泡立ち、彼女が牛肉を入れ始めた。牛肉はとても柔らかく、すぐ火が通るので急いで引き上げなければならない。箸を持って食べようとした時、テレビから賑やかな音が聞こえ、司会者がお祝いの口調で言った。「親愛なる視聴者の皆様、あけましておめでとうございます!」
私たちは何かを忘れていたことに気づき、顔を見合わせて箸を置き、グラスを手に取って軽く合わせた。チリンと音がした。
「あけましておめでとう」
「あけましておめでとう!」
十一
火鍋の湯気が窓ガラスを覆い、外がぼんやりと霞んだ。テレビではコントや歌が交互に流れ、店主と奥さんはリクライニングチェアで時折笑い声を上げていた。店には私たち以外に客はいなかった。
窓ガラスに笑い顔を描くと、外の赤い提灯とネオンが笑い顔を通して鮮明に見えた。視線を窓の外からマダム・マルグリットに移した。「やっぱり愛は偉大であってほしいです。そうじゃないと、自分が馬鹿みたいじゃないですか」
「なんて唐突な話題の切り替えなの」
「あはは、お腹いっぱいになると人はあれこれ考えちゃうんですよ」
「でも『偉大』という言葉で愛を美化しちゃダメよ。愛は愛。あなたが愛のためにした偉大なことは、愛が偉大だからじゃない。偉大なのはあなた自身じゃないの?」
「残念ながら、偉大な愛に出会ったこともないし、偉大なことをしたこともないんです」
マダム・マルグリットはストローを噛みながら、曖昧に問い返した。「そう?」彼女は本当にストローを噛むのが好きで、元の形が分からないほどになっていた。
「一人だけ好きになった人がいました」。私は口ごもりながら、ついに口を開いた。カルピスの度数が高すぎたのかもしれない。「彼を好きだと気づくまでに時間がかかって、気づいた時には逃げ出してしまいました」
「あの料理人?」
「ええ……」
「なぜ逃げたの?」
「彼が結婚していたからです」。声は蚊の鳴くような大きさだった。言葉が飲み込まれてしまえばいいと思ったが、マダム・マルグリットには聞こえていた。彼女はストローを噛むのをやめた。
「私も抑えようとしました。でも……体の中に芽があって、店にいる間、その芽が彼に向かって伸び続けるんです。何でもないふりをして彼の隣で手を洗ったこともあります。心臓がドクドク鳴って。そうすれば自分は満足できると思っていたんです」。私の口調は意外にも冷静で、今日の天気の話をしているかのようだった。「でも無駄でした。すべて無駄。好きという感情は、私を切り刻もうとする悪魔のようでした。店に行くことを切望する一方で、店内の空気に耐えられなくなって、最後には店長に辞表を出しました」
「彼はあなたが彼を好きだって知っていたの?」
私は首を振った。「辞める時、彼は引き止めてくれました。才能のある料理人だと言って。客の好みに合わせて料理の味を微調整できると。多くのことはそうですよね。自分の世界の終わりも、他人にとっては石鹸の泡が弾けるようなもので、音すら聞こえない」
マダム・マルグリットは何も言わず、グラスを回していた。実は彼女に何かを言ってほしいわけではなかった。聞いてくれるだけで十分だった。むしろ、彼女が何かコメントを言うのが怖かった。
しばらく静かだったが、彼女が尋ねてきた。「それで深センに来たの?」
「ええ。最初は遠い場所で気分転換をしようと思っただけなのに、なぜか騙されて店で働くことになりました」
「あなたの店主は、世間知らずの女の子を騙すのが得意なのね」
「当時は彼がとても誠実に見えて、なぜかこのカフェを成功させる手伝いをしたいと思ったんです」
「誠実さこそが、彼の詐欺のテクニックよ」
「なんだか彼を褒めているように聞こえるんですけど」
十二
店主は春節の4日目に営業を再開すると言った。例年の経験からすると、3日の夜には街が目覚め始め、店やレストランが次々と開く。休暇の最後の夕食を終えて歩いて帰る途中、店を通ると明かりがついていたので、ドアを押して入った。店主が中にいた。
「正月早々、家で遊ばずに店に来たのか?」
店主はこんな時間に誰かが入ってくるとは思っていなかったのか、風鈴の音に驚いて振り返った。私だと分かると安堵した。自分の店で泥棒のように振る舞っている。
「明日から営業でしょう。通りがかったから、店が正常か見に来ただけです」
近づくと、彼がコーヒー豆の瓶を一つ一つ並べ直しているのが見えた。カウンターは拭いたばかりでまだ乾いておらず、窓際のテーブルには飲み終わったインスタントコーヒーのカップが残っていた。食後の運動がてら、私もカップを片付けて洗った。
「時給を2倍にはしないぞ」彼は私の動作を見てそう言った。
「はいはい」
カウンターで忙しくしていると、また風鈴が鳴った。一人の少女が入ってきて、私たちがカウンターを整理しているのを見て小声で尋ねた。「あの、今日は営業していますか?」
私はカップを置いて答えた。「いらっしゃいませ。何か飲みますか?」
彼女はとても迷っている様子で、何かを決心したのか、カウンターに座って言った。「飲み物じゃなくて……メニューに残したあのお酒を、消してもらえませんか?」
そんな依頼は初めてで、私は呆然とし、手を洗う動作も止まった。店主がメニューを少女に渡した。「いいですよ。探してください。でも、消したらもう元には戻せませんよ」
少女は頷き、小声で「ありがとう」と言った。メニューをめくり、あるページで止まった。店主にメニューを返し、ある名前を指差した。「これです」
覗き込むと、『此刻(この瞬間)』と書いてあった。
「確定ですか?」店主が尋ねる。
少女はすぐには答えず、メニューの名前をしばらく見つめてから、私を見た。「作ってください」
私はメニューを取り上げ、当時のメモを見た。ホワイトラムとエルダーフラワーリキュールをベースに、パッションフルーツジュースと少量の生姜汁を加え、最後にオレンジフラワーウォーターを3滴垂らし、グラスの縁に塩を塗る。
複雑な酒ではない。やはり私のカクテルスタイルだ。酒を差し出し、今日は冷やしたグラスがないことを伝えた。彼女は首を振って「大丈夫です」と言い、一口飲んだ。豆のような涙が、何の予兆もなくこぼれ落ちた。
「あの時の味じゃない」彼女は手の甲で涙を拭いながら言った。
私はどうしていいか分からなくなった。まさか、今日は生姜汁がなくて生姜シロップを使ったことまで分かるのか? それほど大きな違いはないはずだ。
「あの時はすごく甘く感じたのに、今日はすごく酸っぱい」
店主が私に合図を送ったので、仕方なく言った。「気分や時間の変化で、全く同じ酒でも違う感じ方がするものです。それが酒の意味かもしれませんね」
彼女は頷き、何も言わずにまた一口飲んだ。
「曲をかけてもいいですか。『什麼都浪漫(すべてがロマンチック)』という曲です。初めて飲んだ時、ちょうどこの曲が流れていたんです」
店主が「問題ない」と答え、しばらくすると店内に曲が流れた。最初の歌詞が流れた瞬間から、彼女の涙が溢れ出した。私と店主は顔を見合わせ、一言も発せなかった。二人はカウンターの後ろで、泣き続ける少女をただ見つめていた。
歌詞の一部が聞こえた。
『君とよくやる変なこと、本当に勇敢だね。 君とふざけ合うゲームのような人生、本当にシンプルだね。 君と灯りを消して酒を酌み交わす、人生に悔いなし』
曲が終わると彼女の涙も止まり、店主に向かって言った。「消してください。ありがとう」。支払いを済ませると、彼女は店を出て行った。グラスには半分ほど酒が残っていた。
ドアが閉まり、彼女が遠ざかると、店主は深く息を吐いた。「作り間違えたんじゃないか? 小娘をあんなに悲しませて」
私は首を振った。「当時は適当に作ったけど、今はメニュー通りに作ったから間違いないはずです」
カウンターのメニューはまだそのページで止まっていた。いつの間にかメニューは半分埋まっていた。私は『此刻』という酒を見つめながら、彼女が初めてこの酒を飲んだ日を思い浮かべた。縁の塩が酒の甘さを引き立て、一口飲んだ瞬間にこの曲が流れた。曲には前奏がなく、最初の歌詞が『君と春のドライブ、道端のピクニック、すべてがロマンチック』だった。私が「この酒に名前をつけて」と聞くと、彼女は笑って「『此刻』がいい」と言ったのだ。
私は付箋を一枚剥がし、テープでその酒を隠し、付箋に酒の名前と今日の日付を書いた。店主が横から見て尋ねた。「これって詐欺じゃないか?」
私は頷き、また首を振った。「気分カクテルは嘘だけど、その酒が当時の彼女に与えた感覚は本物だったはずです」
言い終えても自分自身確信が持てず、カウンターのメニューを見つめながら、触れるのが少し怖くなった。
十三
二人の少女に酒を差し出した後、マダム・マルグリットの方を向いた。彼女がずっと私を見つめていたことに気づいたからだ。
「どうしました? ずっと見てるみたいですけど」
「あなたのカードは? 今日は誰にも占ってあげてないわね」
「前のカードは少し粗削りだったので、店主に新しいのを買ってもらったんです。まだ届いていませんが」
マダム・マルグリットは少し驚いた。「新しいのはもっと当たるの?」
「もっと曖昧になるはずです。ある説を見つけたんです。感情に名前をつけると、その感情はその名前に固定されてしまう。だから、感情の傾向が強いカードはすべて取り除きました」
「大人になったわね」
「子供を褒めるような言い方ですね」
「どう、ダメ?」
「あはは、もっと褒めてください」
店主の戦略が功を奏したのか、私のカクテルの腕が上がったのか、最近は夜の売上が昼を上回るようになった。最近彼を見かけないし、メッセージの返信も遅い。彼がこれを知れば喜ぶだろうなと思う。
客を見送った後、マダム・マルグリットに言った。「もし売上が上がり続けたら、店主はこの店を完全にバーに変えるでしょうか?」
「いいえ」マダム・マルグリットは即答した。「彼がやりたいのはカフェであって、バーじゃないわ」
「コーヒーのことも分からないのに、なぜそんなにカフェに執着するんですか?」
「夢だからじゃない?」
店主が夢を持つような人間だとは思えない。カフェを夢にするなんてなおさらだ。
まあ、いつか店に来た時に本人に聞けばいいか。
十四
4月の深センは花が咲き乱れる街だ。真っ赤なブーゲンビリアが、目に入るあらゆる場所で炎のように咲いている。
朝はまだ気温が低く、湿った空気が涼しさを運んでくる。一年で一番早起きが好きな季節だ。バッグを肩にかけて店に向かい、日よけの傘を広げて営業準備をしようとして、鍵を取り出した瞬間に呆然とした。ドアが開いている。
昨夜自分で鍵をかけたシーンを必死に思い出し、警察に電話すべきか店主に電話すべきか、今入るべきか迷った。結局、泥棒が入ったとしても夜明けまで居座ることはないだろうと勇気を出して入った。
入ると驚いた。ソファで誰かが寝ている。スマホを取り出して店主の番号を探していると、ソファで寝ているのは春節以来ほとんど見かけていなかった店主本人だった。
カウンターを片付けながら文句を言った。「びっくりしたじゃないですか。店で寝たら風邪をひきますよ」
彼は髪がボサボサで、髭も剃っておらず、顔のあちこちから無精髭が生えていた。「ごめん。昨夜ふと店に来たくなって、遅くなって寝てしまったんだ」
「鍵をかけるのも忘れないでください。泥棒が入ったら危ないですよ」
彼は子供のように、私の文句にただ頷くだけだった。ため息をついて、アイスアメリカーノを淹れてやった。黒板を出し、椅子を並べ直すと、彼は顔を洗って戻ってきた。まだ髭面だが、髪の爆発は収まっていた。
彼が私を呼んだ。「この店、もうすぐ閉める」
絞り出すように言った。言い終えるとソファに深く腰掛け、うつむいたまま、私の呆然とした様子や疑問には答えなかった。マダム・マルグリットに微信(WeChat)でこのことを伝えた。彼女はすぐに「店主を帰さないで、すぐに行く」と返信した。
マダム・マルグリットが店に入るとドアを閉め、看板を「営業停止」に変え、カーテンを閉めて店主の隣に座り、尋ねた。「店を閉めるってどういうこと?」
店主は彼女の声を聞いて顔を上げた。「どうして来たんだ? 仕事は?」
「店を閉めるってどういうこと?」
「文字通りの意味だよ。経営不振で倒産だ」
「あんたの店が経営順調だったことなんてあるの?」
カーテンが閉められ、店内は薄暗くなり、空気が重苦しくなった。何をすべきか、何を言うべきか分からず、マダム・マルグリットにもアイスアメリカーノを淹れに行った。
コーヒーを差し出した後、外に出て日よけの傘を片付け、外の黒板も中に入れた。外は気温が高いはずなのに、やり終えるとひどく疲れて、ドアの脇に寄りかかって休んだ。
二人は長い間静かだったが、ようやく店主が口を開いた。「近いうちに結婚するんだ。この店も閉める」
「いつ? なんで教えてくれないの?」
「母さんの紹介だ。母さんの同僚の娘。知らない人だし、そんなに前じゃない。春節の時に紹介されたんだ」
「そんなに早く結婚するの?」
「何か違いがあるか?」
「日取りは決まったの?」
「まだだけど、たぶんこの2ヶ月以内だろう」
彼らの会話は5メートルも離れていないのに、遠くから聞こえてくるようだった。私はただの失業する従業員なのに、自分の店が倒産するよりも悲しかった。マダム・マルグリットは結婚の話を聞くと、店を閉めるという事実を受け入れたようだった。
彼らが何を話しているのか、もう真剣に聞くことはできなかった。しばらくしてマダム・マルグリットが歩み寄り、私の手を引いた。いつの間にか地面にしゃがみ込んでいたことに気づいた。彼女は私を立たせ、仕事に戻ると言って帰っていった。
私は頷き、彼らのテーブルのコーヒーカップを片付け、店主に何か飲むか聞いた。彼は首を振り、自分も帰ると言った。出る前に「今日は休んでいい。給料は引かないから」と言った。
薄暗い店内に立ち、何をすべきか分からなかった。カウンターのCDプレーヤーにCDが入っていた。いつもはBluetoothを使っているが、店主だけはCDを流す。CDを取り出し、彼がCDをしまっている引き出しを探して戻した。
いつもと違って中が散らかっていたので、一つずつ並べ直した。すると一枚の紙が出てきた。高校時代の卒業アルバムの寄せ書きのようだった。
『いつかカフェを開こう。看板は青地に白文字がいい。カウンターにはCDプレーヤーを置いて、壁にはポストカードをたくさん飾ろう。旅行のポストカードや、客のポストカードもいい。長いソファも欲しいな。店番で疲れたら寝転がってゲームができるから。店員を選ぶなら、音楽の趣味が合う人がいい。給料をケチっちゃダメだよ! 店名は決めた。「飲夏(夏を飲む)」だ』
十五
あの日以来、店主はバーやカフェを経営する友人を呼び、店内のコーヒー豆や酒を安く売った。酒が減るにつれ、カクテルを作る必要もなくなった。多くのカクテルが作れなくなったからだ。
閉店の通知が出た後も、常連客が店に来た。もう一度酒を飲みたいという客もいれば、レシピを持ち帰れないかと聞く客もいた。後者の場合は、そのページを破って便箋に入れて渡した。日々厚くなっていたメニューが、一日一日と薄くなっていく。
数日後、店内には客が預けていた酒だけが残った。
実は、ここで酒を預けていたのはマダム・マルグリットだけだった。
そして、いつも通りドアを押して入ってきたのはマダム・マルグリットだけだった。「こんにちは。マルグリットを一杯」
私は彼女と寄せ書きの話はしなかった。マダム・マルグリットと店主が高校の同級生であることは知っていたが、あの寄せ書きを書いたのが彼女ではないことも知っていた。この一度も現れなかった人物のおかげで、私はこの街にこれほど長く留まることができたのだ。
手を洗う。今でも手を洗うと以前働いていた店を思い出すが、もう痛みは感じない。店主は店の商品を売る前に、店内の好きなものを持ち帰っていいと言った。私が選んだら、残りを売るのだと。
私は迷わず『物語』を選んだ。
十六
店主の結婚式は豪華だった。天井からは無数のシャンデリアが吊るされている。司会者は雰囲気を盛り上げるのがうまく、会場の視線は舞台左側の階段で花束を抱える、スーツ姿の店主に集まった。
スポットライトが彼の入念にセットされた髪に当たり、彼は花を抱えて一歩ずつ舞台へと歩いていく。マダム・マルグリットは私の隣に座り、店主がロボットのように硬いと小声で毒づいた。私は彼の手と足が一緒に出ているのを見たと答え、二人で笑い合った。
ライトが暗くなり、プロジェクターが新郎新婦のウェディングフォトや動画を流し始めた。雪山、草原、海辺で、白いベールを被った二人が写っている。
「ウェディングカメラマンってすごいわね。店主の目から愛おしそうな感情が見えるわ」
マダム・マルグリットが笑って言った。「変なこと言わないで。もともと深い仲なんだから」
「彼らが本当に結婚式で見せているほど愛し合っていると思いますか?」この質問はマダム・マルグリットにしか聞けなかった。
マダム・マルグリットは首を振り、耳元で優しく言った。「そんなこと言ってると、店主に追い出されるわよ」
「もう店主じゃないし、お金も払ったし」
音楽が終わると、スポットライトが舞台反対側の階段に集まった。花々に囲まれて、純白のウェディングドレスを着た新婦が現れた。会場の拍手の中、新婦はゆっくりと新郎のもとへ歩いていく。
マダム・マルグリットが言った。「店主、何でフラフラしてるの?」
私は言った。「父親のスーツを借りた高校生みたいですね」
ついに二人が並んだ。フラワーガールが指輪を持って走ってくる。司会者が店主に「誓いますか?」と聞くと、店主は「誓います」と言った。新婦にも聞くと「誓います」と答えた。店主が指輪をはめるが、緊張して2回も間違えた。マダム・マルグリットがまた言った。「新婦がどうやって店主に耐えているのか不思議だわ」
私は笑って言った。「真実の愛とは、少しの好きと、巨大な憐れみの合計だという説を聞いたことがあります」
司会者が「新婦にキスを」と言うと、新郎が歩み寄った。また毒づこうとしたが、抱きしめる時に店主が新婦のドレスを踏んだように見えた。マダム・マルグリットが長い間話していないことに気づき、振り返ると、彼女が手の甲で涙を拭っているのが見えた。
十七
雷雨の季節は本当に嫌いだ。
隣の街の村でまた土砂崩れがあったと聞いた。救助隊が救出活動中だ。こんな天気では客も来ないだろう。本を読みすぎて酸っぱくなった目を揉み、片付けて閉店の準備をしようとした。
その時、風鈴が鳴り、一人の少女が雨音と共に店に入ってきた。
彼女はよく店に酒を飲みに来て、メニューにたくさんの乱雑な名前を残していった。
タオルを差し出し、髪を拭くように言った。拭き終えると、雨水以外に涙も頬を伝っているのが分かった。
「どうしたの? 雷雨の中を歩くのは危険ですよ」
彼女はまだしゃくり上げていたが、誇らしげな声で言った。「今日、彼に告白したの!」
思い出した。彼女が以前話していた片思いの相手だ。
「で、結果は?」
「振られたに決まってるじゃない。じゃなきゃ泣かないわよ」。彼女はカウンターのティッシュで涙を拭った。「でも普通よね。振られるのは分かってたし。だって彼には彼女がいるもの」
「分かっていて告白したんですか?」
「振られるのは彼の勝手、告白するのは私の勝手。彼がOKしたとしても、付き合いたくなんてないわ」
「傷つくのが怖くないの?」
「怖いし、振られると本当に悲しい。でも、傷つくのが怖いからって、彼を好きな気持ちを抑えたくはないの」
彼女の髪からは水滴が落ち、服も濡れきっていたが、瞳は輝いていた。私も笑って言った。「お酒を一杯奢るわ」
彼女は受け取って一口飲んだ。「辛い」
ハムを切り分けて差し出した。「この酒は度数が高いから、ゆっくり飲んで。これを食べながら試してみて」
彼女はもう一口飲み、この酒の名前を尋ねた。
私は『物語』を開き、2ページ目の名前を指差して言った。「この酒は『マルグリット』。椿姫の名前から取ったのよ」